神崎郡神河町・猪篠 / 食堂
五月二十二日
但馬はまだ、山の向こうにあった
幸楽

道は、朝からゆるく上っている。 気づかないほどの傾きで、それでも確かに上っていた。
水の音に沿って、ずっと歩いてきた。 名は途中で変わったが、川はいつも道の脇にいた。 両側は杉の植林で、年じゅう同じ色をしている。 この谷で季節を知ろうと思えば、木ではなく、下草の丈を見るしかない。
看板は、道端に立っていた。
白い板に、縦に三つ。 うどん。焼肉。幸楽。 焼肉の二文字が、赤く映えていた。
腹は、とうに減っている。 ただ、開いているのかどうかが分からない。 何時から何時までという知らせを、私は見つけられなかった。 建物は道から少し引っ込んだところにあって、笹と、丸く刈り込まれた植木に半分埋もれている。 瓦屋根の下から、うどんそばと書いた板が、もう一枚下がっていた。
引き戸に手をかけると、開いた。

中は、外より暗い。 壁にはカレンダーが何枚も掛かっている。 外の植木が、そのまま中まで入り込んでいた。 奥の座敷には飴色の低い卓が並び、どの卓にも、小さな焼き網が据えてあった。
うどんがあり、焼肉がある。 峠を前にした人間には、そのどちらも正しい。 迷って、座敷をもう一度見て、他人丼にした。
鶏と卵なら親子だが、牛と卵は他人である。 そういう名の丼が、この国にはある。
注文をして、あとは待つ。
待ちながら、この道のことを考えた。 昔、銀を積んだ馬車が、ここを南へ下っていったのだという。 生野の山から掘り出したものを、海の港まで運ぶために拓かれた道である。 とすると私は、銀が流れ落ちていった方向を、逆に上っていることになる。 運ぶものは、何もない。
丼は、思ったより早く出てきた。

緑の丼に、牛と、卵と、青いねぎ。 卵は固まりきっておらず、白飯のほうへ少しずつ落ちていく。 掬って、口へ入れた。
肉は薄い。 だが、味は濃い。 焼肉屋の肉である。 その濃さを卵がゆるめ、飯が下から受け止めていた。 うまいとか、そういう順番ではなかった。 体のほうが先に、これでいい、と言った。
汁を飲み終えるころには、うっすら汗が出ていた。
この丼は、どこの名前も借りていない。 道の途中にある店で、腹の減った人間が食うものである。 馬車が通らなくなっても、道は残った。 道が残ったから、人は通る。 通る人がいるから、今日もここは開いている。 そういう順序で、丼は私の前にあった。
外へ出た。 道は、さっきと同じ向きへ、ゆるく続いている。 登りらしい登りは、気づかないうちに、もう済んでいたらしい。 この先が生野峠で、越えれば生野はもう目の前だという。 そして生野から先は、但馬である。
残っているのは、越えることだけだった。 腹はもう、できていた。
本日の皿
看板の皿
物語の余韻を、実際に選ぶ一皿へつなぐ。

品書きから
焼肉
楕円の銀皿に、赤身の霜降りとホルモンが区画に分けて盛られ、玉ねぎのくし切りが添えられる。卓に据えた焼き網で、自分で焼く。焼いたあとに、うどんで〆るのがこの店の型だという。
公開されている店舗情報と来店者の写真をもとに構成。品書きや提供内容は変わるため、訪問前に公式情報またはGoogleマップをご確認ください。
周辺図
道しるべ
〒679-2431 兵庫県神崎郡神河町猪篠1886-7
イメージ図。正確な道順はGoogleマップでこの文章は、公開されている店舗情報や来店者の声を参考に構成した創作エッセイだ。 営業時間、定休日、メニューは変更される場合がある。 訪問前に公式情報またはGoogleマップを確認してほしい。